こんにちは、ポップジャパンの石川です。
のぼりラボでは、これまで主に店頭に立てるのぼり旗、交通安全などを呼びかけるのぼり旗について取り上げてきました。
つまり宣伝効果やメッセージ性を持ったのぼり旗です。
しかし、のぼり旗の持つポテンシャルはそれだけではありません。
その他のシーンでも様々なのぼりが、様々な目的で活躍していることをご存知ですか?
その一つの例は『鯉のぼり』
5月5日の『こどもの日(端午の節句)』に日本の空を彩る鯉のぼり。
昔ながらの大きさからマンションのベランダサイズまで、各地で様々な鯉のぼりが立ちます。
他にも、神社に奉納される『神社のぼり』や『楽屋のぼり』などは、一般的な『店頭のぼり』と立てられる目的が違います。
また使用される生地や大きさも他ののぼりと比べて独特です。
一口に『のぼり旗』と言ってもその種類は千差万別。
普段ポップジャパンも扱う屋外広告・宣伝物としてののぼり旗はそのごく一部です。
のぼり旗という日本独特の掲示物について、今回広告以外の面から見てみます。
技術の発展と子供の笑顔に支えられてきた鯉のぼり。
鯉のぼりの起源は江戸時代と言われています。
当時は5月の節句のことを季節の植物である菖蒲(しょうぶ)に準えて「尚武の節句」と呼び、武家の間では男子の健康と出世を願い、家紋を印した旗やのぼりを玄関前に立てることが流行したのだとか。
やがてそれは武家以外の町民の間でも流行し、太平の世の中で変化してきました。
格式に捉われず、『五月の青空を大河にみたて縁起物である鯉を泳がせることで節句を祝う』という文化。
驚きの発想力です。
そんな鯉のぼりの初期型は、大きさは50cm程度とやや小ぶりだったそうです。
素材も和紙で出来ていたらしく、大量生産向けの機械がない時代、一つ一つ手書きで作られたワンオフなものでした。
この大きさでは「屋根より高い鯉のぼり」には物足りない感じ。
実際は手旗感覚か、玄関先に飾っていた程度でしょう。
では現在のような大きな鯉のぼりは一体いつごろ出来てきたものなのか。
調べてみると、鯉のぼりが大型化してきたのは明治以降とのことでした。
江戸時代から引き続き和紙を用いたものが主流だったそうですが、紡績技術、縫製技術の発展や機械化によって次第に布製のものへと移行します。
そして鯉のぼりは巨大化。
大きいものでは9mのものや15m級にまで大きくなったものもあったそうです。
また描かれている絵柄についても、江戸時代の一つ一つ手書きによるワンオフなものから量産体制へと移行し、戦後に至っては本染め仕様へと移り変わります。
印刷技術も時代と共に発展し続け、化学繊維の生地に絵柄がプリントされるオートメーションの実現によって、今日の鯉のぼりへと完成してきました。
最近ではARに対応し、スマートフォン画面越しではありますが、部屋の中を泳ぎまわる鯉のぼりなんてのもあるそうで、鯉のぼり業界も発展目まぐるしいようですね。
江戸時代から脈々と続く「鯉のぼり文化」は技術の変化と発展と共に、常に最新型へと進化している現在進行形なものでした。
火事とけんかは江戸の華。纏(まとい)も実はのぼりの一種。
今度は少し変わったところで「纏(まとい)」のお話を。纏ってご存知ですか?
日常生活ではあまり聞きなれない言葉です。
この「纏(まとい)」とは江戸時代の「火消し」が出動する際に担ぎ掲げている布飾りのついた棒のことです。
時代劇などで火事のシーンがあったりすると、よく画面に登場しています。某将軍様が大暴れする時代劇では結構お馴染みの代物で、そちらのイメージが強いという人も多いのではないでしょうか。
しかしながら、この纏。
一見のぼりとはあまり関係なさそうな気もしますが、実は纏も最初はのぼり旗の一種でした
纏の誕生は1700年代の初期。
火消しの創設当初では纏も他ののぼりと同じく竿に旗がついていた形であり、当時は纏幟(まといのぼり)などとも呼ばれていたそうです。
時代劇などでよく見るような立派な飾りが沢山つき、様々な形状の纏が登場したのは1830年~1840年の間頃だという資料が残っています。
ペリーの黒船来航が1853年、大政奉還が1867年ですから、幕末近くまで纏の形状はのぼり旗と近しいものだったようです。
では何故、火消しの際に纏を用いていたのかというと、その目的は他ののぼり旗に漏れず「目印」としての役割でした。
そして、そのルーツは戦国時代。
火事の現場において火災の発生を知らせる目印として、消火活動における士気を鼓舞する旗としての役割を纏が担っていました。
さらに当時の消火方法とは現在のように水や消化剤を用いて鎮火させるものではなく、火災周辺の家屋を破壊して延焼を食い止めるものでしたから、例えば風向きだとか破壊する範囲を知らせる重要な意味も纏は持っていたそうです。
そして纏を持って火災の風下の家の屋根に上がって振り回すことを「消し口を取る」と言うそうなのですが、その意味とは「我が組がこの家までで火災を食い止める!」という宣言だったのだとか。
しかも「消し口を取った」からにはその家で食い止められなければ組の恥とみなされますから役割は重大です。
纏持ちは組頭が「降りろ」と命じなければ降りられないのですから、場合によっては命を落しかねません。
ですから、もう組の火消しは死に物狂いで消火に当たっていたそうです。
つまり纏というのぼり旗を命懸けで振っていた時代があったということです。
もちろん現在では消防・消火の技術も発展し、纏も第一線からその姿を消しました。
今日ではより儀式的であり儀礼的な装飾を施されたきらびやかな纏を消防関連のイベントなどで目にすることができます。
技術発展とともに未来へ向かうのぼり旗
今回は鯉のぼりと纏という二つの広告宣伝用ののぼり旗ではない、「文化的なのぼり」について調べてみました。
これらは直接的に集客や販促に繋がるものではありませんが、のぼり旗というものの幅広さを知るよい事例となり得たのではないでしょうか。
鯉のぼりは未だ進化を続けており、伝統と文化とテクノロジーを時代と共に融合させ続け大枠の姿は変わらずとも密かな進化を続けていました。
纏は現在使われることはもうありませんが、江戸文化の発展に文字通り命懸けなカタチで貢献し、装飾のぼりの姿として一つの到達点を迎えたと言えるでしょう。
そして、恐らくこれらののぼり旗に注ぎこまれた技術や歴史、文化的背景とか或いは人々の意思は屋外広告としてののぼりにおいても大いにフィードバックできる可能性を秘めているのではないかと我々は考えます。
単純な発想ではありますが、何しろみんなのぼり旗の話。
同じご先祖様を持つ者同士なのですから。
のぼり旗の今後の発展や未来の姿を模索し策定するために様々な方策が用いられ、様々なテストが行われていますが、正直まだまだ実を結んだとは言えない状況が続いています。
のぼりラボもそのような状態を打破すべく立ち上がり、日々のぼりについて研究調査を続けているのですが、今回の調査も今後ののぼり旗発展を考えるヒントを得ることができました。
伝統文化と最新技術を併せ持つのぼり旗。
その可能性について引き続き調査を続けたいと思います。
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